蜷川の「海辺のカフカ」~観劇メモ~

蜷川幸雄演出の舞台「海辺のカフカ」を観てきた。

言わずと知れた村上春樹原作。

キャスト一新、宮沢りえ主演で再演とのこと。

 

初っ端からジャブを食らった感じだった。

 

度肝を抜く舞台セット。

北九州芸術劇場大ホールの舞台上に、大小の透明な箱が回転しながら置かれていく。

 

ケース天井の内側4辺には蛍光灯が明々と点いているので、さながら動くショーケース。

 

ショーケースの中には、緑が青々と茂る森、誰かの部屋、公衆トイレ、バスの停留所、図書館の受付、安宿の一室等々が設えており、話の筋に沿って組合せはガラリと変わる。

 

登場人物はそれぞれのケースの空いている一面を出入りし、 

これらショーケースの配置換えと暗転が場面転換となる。

 

すべての人生は、このようにさまざまな視点で同時進行の話として語られ観ることができるのだと、まさにショー的にケースで個々を見せられた思い。

ほかにも意図はあったかもしれないが、分からない。

 

冒頭、ドキッとするほど美しいフランス人形のような女がいた。

宮沢りえだった。

 

たかだか50cmくらいしかない高さと畳一枚分の広さもないショーケースの中に細い体を折り曲げて収まり、観客のほうをただ見据えたままのケースが他の大小のケースの間をゆっくり回転しながら動いていく。

 

運命に自ら囚われているのか、抗ってもがいているのか、彼女自身にも傍観者にも分からない。

彼女は心の中は15歳のまま人生をさまよっているのだと後で分かるのだが。

 

話の筋は気にならない。

というよりも、大筋は分かるけれども真相は最後まで分からなかった。

たぶん、独特な村上節なのだろう。

と、分かったようなことを書くけれども本当に分からなかった。

 

それよりも、蜷川のフィルターが面白かった。

 

たとえば、セクシャルな表現の演出で生死を描き分ける。

 

場末のホテルのシーンでは若い二人が生きる喜びが爆発させていた。

 

対して、白いカーテンがゆらめく幻想的な一室(のショーケース)ではカフカ役の少年と佐伯さん(宮沢)との儚い営みの気配。

 

居るようで居ない、今を生きる希薄さと舞台上での存在感の両立を宮沢りえが体現していたように思う。

 

ふと、彼女は浅丘ルリ子に似てるなと思った。

華奢で儚げなのに、毅然と声も通る。

 

鈴木杏の溌剌とした少女の躍動感は、まぶしい逞しさとなって印象に残る。

 

高橋努の絶妙な間合いも、ナカタさんを助ける青年のとぼけた笑いと悲しみを味わわせてくれた。

 

少年カフカ役の古畑新之は蜷川が見出した新人らしい。

なにが凄いって、少年の悲しみを背中で表現したこと。

 

大詰めのたった一度だけ、ショーケースが一つもない真っ暗な舞台にミストシャワーが降り注ぐ中、少年カフカがただ立ちすくむ。

ただ立ち尽くす・・・

ベテラン俳優でも難しい芝居だと思うが。

 

 

舞台には、アリアのような静かで悲しげな音楽が通底音のように終始流れる。

 

その音が切れるのは、佐伯さんが少年にサヨナラするシーンだけ。

能舞台のような囃子が今生の別れを告げるように空気を切り裂いた。

 

 

映像であれば繰り返し観るのだが、舞台は一期一会。

 

あのとき、あの舞台を観れてよかったと思う。

 

ハルキストには申し訳ないほど興味がなく、原作は読んでない。

これからは・・・どうだろう。